白水和憲のエッセイ

 

エッセイ型雑記帳(追加型、随時更新)

① 隣の芝生は青い

1970年代後半、大学卒業後に就職した会社は日活だった(当時の会社名はひらがなで“にっかつ”)。“ロマンポルノ”映画の制作・配給を主業とする会社だ。1912年創業の老舗映画会社とはいえ、経営は芳しくなかった。

数十年来、母校から入社した人がいなかったため、学生課の掲示板にも募集要項が貼り出されていなかった。知人から募集があることを聞いて応募した。書類選考を経て1次試験会場は大阪のとある老舗ホテル。会場に入った途端、足がすくんでしまった。会場いっぱいに並べられた机・椅子にはぎっしりと応募者で埋まっていた。500人ほどがテストを受け、この中から20人前後が東京での2次試験に進める。

1次試験を通り、2次試験会場は東京の本社撮影所(調布市)。ここでもテストと面接。これも運よく受かった。当時社長だった根本俤二氏が直々の面接官だった。

根本氏は助監督出身で元・日活労働組合委員長だった。その暴れぶりも有名で、「いつ刺されてもおかしくない」と言い放ち、常に革ジャンパーを身に纏っているとのうわさを聞いていたが、面接ではきちんとしたスーツ姿であった。

「会社では何をやりたいのかね」と聞かれ、「監督か制作プロデューサーです」と答えると、「みんなそう言うんだよ」と薄ら笑い。聞かれたから答えたのに、鼻であしらったような言い方だった。いずれにせよ、2次試験も受かった。

大学の学生課に就職できたことを報告しに行くと、担当者(男性と女性の2名)から「エッ、そんな会社に入るの。ご両親は何と?」と、ニヤッとされた記憶がある。世間の受け止め方はこんなもんか、と。

4月入社、新人研修では乃木坂近くの本社(=当時、赤坂9丁目)と調布撮影所を行ったり来たりの日々で、その後、本格的に東京での生活が始まった。

東宝、東映、松竹などの大手が華やかな文芸作品や娯楽映画を世に送りだしているのとは違い、日活の商品は“ロマンポルノ”というB級作品。“ロマンポルノ”はマニアックなファンが多かったとは言え、日陰のイメージが付きまとっていた。世間からは冷やかな目でみられ、知り合いからは「妙な業界に入ったもんだね」と。そんなわけで、自ら志望して入った会社だが、多少の引け目を感じながら働いていた。

そういう日々を過ごすうち、フリーのアニメ制作プロデューサーである西崎義展氏が新規事業を興すという情報を伝え聞いた。当時、西崎氏はアニメ『宇宙戦艦ヤマト』シリーズのヒットで飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

その成功に勢いを得てメキシコとの合作実写映画を企画中で、その制作スタッフを集めようとしていた(註:この企画はのちに頓挫)。

都内の説明会場には大勢の応募者が詰めかけていた。リクルートスーツの新卒者などは皆無で、殆どは経験者らしき人たちだった。ラフな格好で長髪を後ろで束ねた風体や、現場から取り急ぎ駆けつけたという感じの人も少なからずいた。

壇上で西崎氏は自らのヒット作の自慢を滔々とはじめ、最後には「今回はアメリカでの研修後、すぐに現場に入ってもらう。それには一人200万円が必要になる」と締めくくった。この説明に会場は少しざわつく。隣に座った応募者の一人と休憩時間に、「応募する側がカネを用意するなんて、何だか変な募集だよね。それにこの企画、大丈夫かな?」ということになった。「ところで、あなた今、何しているの?」と聞かれたので、「日活にいます」と答えると、「羨ましいですよ。そこをやめるはおよしなさい」と忠告された。親切心からなのかどうかはわからない。ただ、同じように違和感を持った応募者も少なからずいたようで、最終的には2次面接を受けることを希望しなかった。それにしても、引け目を感じていたロマンポルノ業界なのに、「羨ましい」と言われたのは本当に意外だった。

The grass is always greener on the other side of the fence. ‥‥“隣の芝生は青い”だったのか、ロマンポルノから一般映画への転職にはつまづいた。

ちなみに、西崎氏はのちに覚醒剤取締法違反(覚醒剤+ヘロイン+大麻、1997年)、銃刀法違反(擲弾発射器付き自動小銃+小銃用実弾+擲弾、自動小銃密輸、1999年)で逮捕されている。

西崎氏はあぶない人物だったのである。

くわばらくわばら。

<続く>

 

②  ある日突然、ニューヨーク勤務の辞令

「人手が足りないので、ちょっとニューヨークに行ってくれないか」

映画制作・配給の日活から移った会社の役員(専務)からそう言われたのは1981年7月のことだった。

「“ちょっと”というのはどれくらいの期間ですか」と聞いてみる。どうも歯切れが悪い。

「とりあえず長期出張だと思ってくれ。期間は未定だ。事と次第によってはそのまま現地に残ってもらうかもしれない。まぁ、、、そんな感じだ」

そんな感じ? あまりにもゆるい会社決定を告げられたことで、「左遷かも!」と直感。ニューヨークでのスタッフ不足もまんざら嘘ではなかろうが、社内における私の態度や発言など会社から好意的にみられていなかった可能性もある。心当たりもあった。学生時代からの友人にこのことを話すと、「ニューヨークに飛ばされる? あのニューヨークか! 栄転じゃないのか !? 普通は喜ぶもんだがな」と訝しがられた。普通の会社だとそうかもしれないが、まぁ、個別の社内事情はそんな単純なものではないことも往々にしてある。私の場合、ニューヨーク勤務を希望していたわけでもなかったので、唐突の辞令でしかなかった。

「現地からキミには“I Visa”を取ってくるようにと聞いているので、ヨロシク」と役員は付け加えた。特定ビザ(=I Visa)での渡米はあくまで現地側の要望であり、自分はOKをだしただけ、と言いたげだった。辞令をだす権限を持つ役員だからすべてを知っているはずだが、当方には詳しく説明しない。

まぁ、どうでもいい。それにしても、I Visa?。

I Visa(=アイビザ)とは、いわゆる報道関係者ビザのことで、最大5年。(現在はどうなっているのかしらない)

発行対象は、

(1)ジャーナリストや新聞、ラジオ、テレビ等の派遣記者やメディア関係者

(2)レポーター、映画製作班、エディター、製作・企画会社の社員、契約のあるフリーランスのジャーナリスト、および撮影クルー・外国報道機関の代表

――などである。

Iビザであればアメリカ国内で仕事をして、現地会社から給料をもらって生活することは可能だ。しかし、給料はあくまでも日本からアメリカ現法に送金する。つまり、仕事の現場はアメリカ国内だが、給料は日本側がだす。

うーん、これは何だろう。やはり途中で現地会社に転籍、雇用ビザに切り替えさせる気なのか、と勘繰る。まぁ、いいや。成り行きに任せよう。

しかし、いま借りている東京のマンションはどうしよう? このまま契約を継続すべきか、あるいは現法への転籍で駐在が長引いた場合を考えて解約するか。途中帰国の場合も住むところがないと困るし。辞令をもらった時に直属上司に相談すると、役員と同じで要領を得ない返事。おそらく事情が把握できていないのか、役員から詳細を耳打ちされてすっとぼけているのか。部下のことには無頓着な人だったことを思いだし、もう行くしかないと肚を決めて渡米することにした。

後日談だが、結果的にはこの派遣形態が長期間続き、アメリカで支払われる給料(週給制の小切手)と同時に渡される明細書には赴任直後から各種Tax(Federal O.A.B.、Withholding Tax、State W.Tax、City W.Taxなど)が徴収されていた。しかし、東京に住民票を置いてきていたため、駐在期間中も各種の納税通知が東京のマンションには届いており、それが未払い状態になることなどあまり深く考えていなかった。会社もそこまで親切にプライベート面でのフォローはしてくれず、帰国後に延滞料込みで一括支払いをさせられる羽目になった。

後顧の憂いを自覚しないままのニューヨーク赴任だった。

<続く>

 

③ アメリカ・ニューヨークに

1981年10月2日金曜日、成田国際空港15時55分発ノースウエスト(NW)航空004便でアメリカ・ニューヨークに向かう。

成田を発ってから約10時間、日本時間の真夜中2時過ぎに予定通り西海岸オレゴン州ポートランド(Portland)空港に到着。同空港で2時間ほど待機。寝ぼけ眼の状態だからウロウロ歩くのも億劫。空港内の通路脇に設置されているソファーで半睡眠状態。ふと空港アナウンスが耳に入り、再びNW機に乗り込む。乗機して数時間した頃、「当初の予定を変更し、シカゴ・オヘア(Chicago O’Hare)に着陸します」との機内アナウンス。乗客がいっせいに騒ぎ出す。「エーッ!!」。機材に不具合か何かが生じたのだろうか。説明はなし。

何とか静かさを取り戻したものの、シカゴ・オヘア空港到着の直前に再び機内アナウンス。「当便はシカゴ止まりとなります。ニューヨークへは他便にお乗り換えください」との案内。再度、機内に響く不満の声。「エーッ」。

仕方がないので空港到着後、当地をハブ空港とするユナイテッド(UA)航空のカウンターに向かい、NW機からUA機への乗り換えチケットを発行してもらう。

航空会社を変更したことで到着空港も変更となった。当初はニューヨークのジョン・F・ケネディ(JFK)空港だったが、到着地はニューアーク(Newark)空港になった。ニューアークはニューヨーク州の東南に隣接するニュージャージー州に位置する。

3度目のガッカリに、多くの乗客はもう観念した様子。

目的地がニューヨークの場合、到着空港は2つある。JFK空港とラガーディア(LaGuardia)空港。さらにもう一つ、ニューヨークに近いニューアーク空港もよく利用される。

当初の予定より約半日遅れとなったが、それでも何とか無事ニューアーク空港に到着した。

空港でタクシー(イェローキャブ)を拾う。荷物が多いのと私がキョロキョロしていたためか、タクシー運転手からは「コイツ、田舎モンだな」と思われたに違いない。遠回りして運賃をふっかけてくる雲助タクシーには気をつけなければならない。

「どこへ行くんだい?」と、聞き取りにくい強い南部なまりの米語。なんだ、コイツも田舎モンか、、、。

行き先を告げると「フン」と言ったきり。感じが悪い。フロントガラス横に固定されているタクシー登録証をのぞき込みながら、「ヨロシク、ミスター〇△×◇」と挨拶。そして何か聞かれるたびに、「イエス、ミスター〇△×◇」「ノー、ミスター〇△×◇」「シュア、ミスター〇△×◇」を繰り返した。

(続く)

 

④ Queens区 Forest Hillsに住む

「ミスター」、「ミスター」とくどいほど繰り返したのは、私はアンタの名前をしっかりと覚えたぞと、自分なりの警告シグナルを出したつもりだった。口にはしないが、「雇用主のタクシー会社に通報されたくなければ遠回りなどせず、ちゃんとしたルートと運賃で目的地まで走ってくれ」というメッセージを込め、タクシー登録証と運転手を何度も確認するポーズを繰り返し、ついでに手元の簡易マップをみるフリをした。

法外なボッタくりに遭わないようにするためにはこうしたやりとりをするほかない。用心にこしたことはない。日本では恥ずかしくてとてもやれそうにもない三文芝居だが。

ニューワーク空港からタクシーで夕闇のInterstate 95号線を北上し、途中で東のマンハッタン方向に右折分岐すると、ハドソン川(Hudson River)に突き当たる。その向こう側には高層ビル群が眼に飛び込んでくる。写真やTVでもすっかりおなじみのあの光景である(この時は威風堂々たる高層ツインタワーの世界貿易センターがまだ健在であった)。

この瞬間、やっと「あぁ~、ニューヨークに来た」という実感が湧く。

ハドソン川の下を潜るリンカーントンネル(Lincoln Tunnel)を通り抜けるともうマンハッタン島の地上だ。そう、マンハッタンというのはハドソン川とイースト川(East River)の2つの川に挟まれた島の上に存在している。

住むのはクィーンズ(Queens)区に確保してある会社契約のApartment。マンハッタンからクィーンズに行くには、マンハッタン東端のクィーンズボロー橋(Queenzboro Bridge)でイースト川を越え、その先にあるロングアイランド(Long Island)島に渡る必要がある。ロングアイランドもまたマンハッタンと同じく島になっている。マンハッタンが南北の縦長状の島ならば、ロングアイランドは東西の横長状の大きな島。実に対照的な形状である。

クィーンズボロー橋から続くクィーンズ通り(Queens Blvd)をそのまま東方向に走るとクィーンズ区に入り、イエローストーン通り(Yellowstone Blvd )沿いにあるForest HillsのApartmentに着く。

1階玄関に待機する黒人の守衛さんが笑顔でドアを開けてくれる。高層Apartmentの1LDK+B(ベッドルーム)の部屋だが、日本での間取りとは違い優に20帖以上はあるLDK。

ベランダからの景色はすばらしく、見おろせば緑に囲まれたForest Hills Tennis Stadiumが眺められる。直前まで住んでいた東京・武蔵野市のマンションとはずいぶんな差である。実際、武蔵野市のマンション2階の部屋の窓から見えるのは戸建て住宅群の屋根が延々と広がる光景だったので、このニューヨークのApartmentからの眺めは気分爽快そのもの。

快適な住環境にホッとした。地下には大型コインランドリー機があると守衛に聞いていたので行ってみると100台近くが並んでいる。何とまぁすごいこと。さすがアメリカだと感心した。

日本を発ってからの長距離移動と機材トラブルで疲れもたまっていた。週明けからのニューヨーク生活をあれこれ考える暇などなく、すぐに眠りについた。

<続く>

 

⑤ オフィスは42nd Street

ニューヨークのオフィスはマンハッタン区の60 East 42nd Streetにあった。大ヒットしたブロードウェイミュージカル『42nd Street』はこの通りのことである。

通勤経路はクィーンズ区Forest HillsのApartmentから徒歩10分のところにある地下鉄“F”ラインのForest Hills駅から乗ってJackson Hights駅、Queens Plaza駅、23rd Elly Ave駅、Lex Ave駅、5th Ave駅、Rockefeller Center駅を過ぎて42nd St駅で下車する。

Forest Hills駅には地下鉄“E”ラインも並行して走っており、これに乗った場合は5th Ave駅で“F”ラインに乗り換えることになる。

もうひとつ、Jackson Hights駅で“7”ラインに乗り換え、Grand Central駅で降りるという行き方もある。Grand Central駅は有名なパンナムビルの隣接地下にある。

実は、勤務するオフィスはGrand Central駅のすぐ斜め前のビル(Lincoln Bldg、53階建て)の7階に入居していた。Grand Central駅からは2分、42nd St駅からは8分で着く。どれを使うかは気分次第となる。一番楽なのは乗り換えなしの“F”ラインだった。

ニューヨークの地下鉄は危ないとよく言われるが“F”、“E”、“7”などの路線は比較的安全だとされている。危ないのはハーレムを通る路線である。終夜営業の地下鉄に女性が夜の時間帯に乗ることは避けた方がよく、昼間だって危ないことも多い。男とて用心が必要だった。やはり路線は選ばなくてはならない。

地下鉄でなければ車で通うことになる。会社が所有する車はChevrolet Citation、パンナムビルの駐車場を利用する。マンハッタンの朝夕の道路混雑はすごいからよほどの用事がなければ車通勤はしないほうがよい。

一度、タクシー(通称Yellow Cab)と接触事故を起こしたことがある。事故を起こせば次年度から保険料が上がるため、上司に叱られたことがある。

朝食は基本的にApartmentでとるが、そうでない場合は42nd Street沿いのオフィス近くの軽食店でパン+スクランブルエッグ+コーヒーで済ませることも多かった。

基本の勤務時間帯は朝9時から夕方5時まで。日本のように“連れション”ならぬ「連れ残業」はない。オフィスを出れば歩いてタイムズスクエア(日本でいえば銀座4丁目交差点)やブロードウェイに行けるわけだから夕方から始まる映画や舞台などを観に行くことができる。よほど羽目を外さない限り、アフター5は結構楽しめる。

7番街(7th Ave)のカーネギーホール横のカーネギーシネマ(地下)では古い欧米名作映画が上映されていて、よく観に通った。また、前述の『42nd Street』の他、当時ヒットしていたミュージカルは『Evita』(アルゼンチン大統領夫人エバ・ペロンの物語)や『オー! カルカッタ』(←フランス語のOh, quel cul t’as!に由来)などがあった。

ニューヨークのレストランで美味しいと思った店は少ない。ビーフは草鞋(わらじ)みたいな形をした大きな肉の塊といった感じで味がなく、塩・胡椒・ハーブなどをバンバン振りかけるしかない。また、アメリカ人はコーヒーに砂糖とミルクをジャブジャブと思いっきり入れて飲む。コーヒーの味なんかしないだろうに、と思ってしまうくらいに入れる。

忙しい時期には残業するが、夕食を逃してしまったらイーストビレッジの一角(2nd Ave、7th St)の24時間営業ウクライナレストラン「Kiev Diner」まで足を延ばした。客のほとんどがNY在住ウクライナ人で、「料理は故郷の味そのものだ」との評判だった(現在は閉店)。

日本食レストランも多くあったが、値段はピンキリ。日本人の味覚に合いそうな店は昼5~8ドル、夜は10ドル前後といったところ。名前は日本レストランでも、経営が韓国人という店も多く、日本料理モドキが堂々と卓上に並ぶ。冷ややっこなんかは醤油の海に浸かった豆腐が出てきたりする。

美味しい味を求めるなら、“稲ぎく”“レストラン日本”“しんばし”“江戸ガーデン”“吉兆”などの有名店になるが、そうなれば昼10~15ドル、夜15~20ドルと馬鹿馬鹿しいほどに値段が高くなる。ちなみに、当時の換算レートは1ドル=230~240円だった。

この時、私の週給は203ドル(毎週金曜日に小切手払い)。毎夜通うと、給料の半分がすっ飛ぶ。

マンハッタンの夕食を快適に過ごすには自分の口に合う地元の店を見つけ、そこに通うほかない。個人的には、牛・豚よりも鶏(chicken)であれば無難な料理だと感じた。

<続く>

 

⑥ ブラックマンデー(暗黒の月曜日)のロンドン

1987年10月10日(土)夕刻、ロンドン郊外ウェスト・サセックス州にあるガトウィック空港に降り立った。イギリスの表玄関でもあるヒースロー空港ではなくガトウィック空港になったのは、同地を本拠とするブリティッシュ・カレドニアン航空(※)を利用したからだ。

(※)ブリティッシュ・カレドニアン航空は1988年4月に英国航空に吸収合併された。

空港ターミナルを出ると、全身に寒々しい雨と風が吹きつけてきた。ロンドン中心部のビクトリア駅まで急行列車で30分、車だと約一時間弱の距離だ。ロンドン市街地に向かうタクシーの窓ガラスに吹きつける雨は一向にやむ気配がない。

「赤い靴」(The Red Shoes)、「ガス灯」(Gaslight)そして「哀愁」(Waterloo Bridge)などロンドンを舞台にした映画で印象的だったのが、街全体が靄(もや)で霞み、得体のしれない魍魎な空気に覆われた風景だった。

「ロンドンの暗鬱で荘重な赤煉瓦の建物は、雲が重く垂れこめた空とふしぎに似合う」と紀行文で書いたのは松本清張だが、タクシーを降りる頃には雨混じりのロンドン市街地の風景が眼前に広がり、この趣を感じるようになっていた。

宿泊は世界的なホテルグループTHF(トラストハウスフォルテ)に属するウォルドルフホテル。テムズ川にかかるWaterloo Bridgeを渡ってすぐのところにある。重厚でクラシカルな外観だが、廊下を歩くたびにミシミシと音がする。いまにもエルキュール・ポアロ(アガサ・クリスティー作品)やシャーロック・ホームズ(コナン・ドイル作品)などの名探偵がひょっこりと顔をだしそうな雰囲気のホテルだった。

10月15日(木)の夜半から翌16日(金)朝にかけてロンドンは大暴風雨となった。街中の樹々がなぎ倒され、その被害で道路は大混乱となった。列車も止まった。イングランド銀行は“休日通告”を出し、ロンドンの金融街(通称:シティ)から人の姿が消えた。

嫌な予感すら漂う。何の予兆か、、、。

17日(土)、18日(日)の休日を経た翌週月曜日(10月19日)、驚愕の出来事が起こった。株式の大暴落である。ブラックマンデー(暗黒の月曜日)だ。連鎖的にニューヨーク、東京、そして世界中を襲った。

イギリス到着後から1週間かけて集めた綿密な経済・株式・金融の調査データがこの日を境にすべてゴミになった。再び地元イギリスの金融当局(大蔵省)をはじめ4大銀行や投資銀行、そして日本から進出している銀行・証券・商社・メーカーに向かい、ゼロからの情報収集に駆けずり回った。

“ブラックマンデーがもっと前に起こってくれていたらこんな苦労はしなくても済んだ”と心底ぼやきたくなった。

そういえば、ブラックマンデーのつい1週間前に某日系銀行を訪れた際、駐在支店長が「イギリスは“日英金融摩擦”とか“オーバープレゼンス”とか騒ぎたてているが、日本の銀行を追い出すなら追い出してみろ。シティは木っ端微塵だゾ」と鼻息が荒かったことを鮮明に覚えている。

実際、邦銀がシティから引き揚げると資金量の4割が減ると言われていた頃だけに、つい増長したのかもしれない。

“たかがサラリーマンのくせしてずいぶんと傲岸不遜なセリフを吐く支店長だなぁ”と思いつつ、これも当時勢いのよかった日本経済の力なのかと思ったりもした。ブラックマンデーが突然襲ってくるとも知らずに、、、。

あのエラソーな支店長は今どうしているかなぁ。

(続く)

 

⑦ 無自覚だった英国上流社会でのふるまい

やはり付け焼刃は簡単に剥がれる。

通された部屋の壁側には洒落たバーカウンターがあり、棚にはワインやスコッチウィスキーが並んでいる。

中央に置かれた重厚なテーブルに座ると、この部屋の主の男性がこう聞いてきた。

「お飲み物は何になさいますか?」

反射的に、

「ビールを、、、」と、うっかり答えてしまった。

内心「シマッタ!」と思ったがもう遅かった。最初にビールをお願いした時点で育ちがバレてしまう。

部屋の主は、Kleinwort Benson(クライン・オートベンソン)会長のMichael J. Hawkes氏。まさに絵にかいたような英国紳士の風情を漂わせている。上品な銀髪に長身、この時Michael Hawkes氏58歳。背筋を伸ばし、ときどき眼鏡をはずし、キングスイングリッシュでゆっくりと話す。アメリカ人のように早口で気さくにジョークを飛ばしながら接してくる雰囲気は微塵もない。

同席するJonathan Agnew氏(Kleinwort Benson Securities会長)は話を聞いているだけで、口を挟むことはあまりない。3人だけの静かな空間だった。

会長室に入って10分もしないうちにこの重苦しい雰囲気に肩が凝ってきた。少々のお酒と高級チーズを嗜みながらの“くつろぎタイム”も含めて会食兼懇談は1時間半にも及んだ。

Kleinwort Benson(※)は英国最大手のマーチャントバンクである。マーチャントバンクとは、英国産業革命が進む中で19世紀初めのロンドンに起源をもつ投資銀行である。銀行業のほか、貿易、金、外国為替、国際金融、証券、投資顧問など事業は多岐に及んでいた。

1792年のキューバ砂糖貿易に端を発した200年企業である。オフィスは、テムズ川北岸の金融街シティ・オブ・ロンドン(=通称シティ)のLombard Streetから東に続くFenchurch Streetに位置している。イングランド銀行、王立取引所(Royal Exchange)、ロンドン証券取引所(LSE)とも近い。

事前に取っていたアポイントは1987年10月19日の午後3時。ややこしいことに、ブラックマンデー当日に重なってしまった。早速、変更の連絡が入ると思ったが、そんなことはなかった。オフィスのどのフロアも慌ただしかったが、会長室だけは静かだった。

「株式の大暴落でシティは大変なことになりました。世界の金融・資本市場は激変するでしょう。ニューヨークも東京も、、、」とMichael Hawkes氏は低い声でつぶやいた。

一般的に、マーチャントバンクの会長は業務の細かいところに精通しなくてもよいことになっている。いわば神輿に乗った殿様みたいな感じだ。大抵が上流階級出身の人物がその座に就く。それは顧客の多くが上流社会の人たちであり、その資産を運用するマーチャントバンクのトップもまた上流社会の出身でなくてはならない。要は、英国階級社会のルールのようなものだ。

そうした高貴な育ちのマーチャントバンク会長の応接室で大衆的なビールなんか飲んではいけないのである。私はとんでもなくマナー知らず、田舎者の日本人だった。

Michael Hawkes氏は2016年4月に死去、86歳だった。合掌。

 

(※ 1995年Kleinwort Bensonは独Dresdner銀行に買収されてDresdner Kleinwortになったが、2009年にはDresdner 銀行自体も独Commerzbank銀行に買収され、Kleinwortの名もDresdnerの名も消滅した)

(続く)

 

⑧ 北朝鮮に入ってみた(その1

「開城に行ってみませんか?」

そう打診されたのは2015年3月のこと。

開城(ケソン、Kaesong)とは北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)南西部に位置する都市で、韓国との間で開城工業団地(Gaeseong Industrial Complex=GIC)が共同開発中だった。

「エッ、北朝鮮に入れるんですか?」

窓口になってくれたのは韓国系某団体。

「入国できそうだったら連絡します。許可が下りなかったら諦めてください」

北朝鮮に入れるチャンスなんて滅多にない。朝鮮半島同胞の祖国訪問でもなく、韓国企業関係者の北朝鮮視察でもない。そもそも、当方は日本人。ましてや観光目的でもない。入国理由は、開城工業団地の現地視察という1点のみ。政治イシューに触れることはタブーであるのは大前提である。

日本で連絡を待つよりも、韓国で仕事をしながら連絡を待とう、と考えた。韓国での仕事とは、政府や韓国企業に出向いて日韓投資環境に関する調査と取材をすることだった。韓国は日本ほど国土が広くないため、首都ソウルを起点に南東部のウルサン(蔚山)や中西部のグンサン(群山)など地方都市への移動も高速道路や高速鉄道を使えば比較的容易だった。

そうこうするうちに、件(くだん)の団体関係者から「やっと許可が出ました」との連絡が入った。「ただし、個人での入国は難しく、某欧米企業の訪問希望者と同行する形だったら大丈夫そうです。北朝鮮側の都合で入国がキャンセルになることも有り得ますので、そこら辺はご了解ください」ということだった。

10月15日の朝8時、ソウルを車で出発。10時にソウル北西の京畿道坡州市(Paju)に到着。坡州市中心部から北東方向にかなり走ると、眼前には有刺鉄線(鉄条網)が張られている。その向こう側が民間人統制区域(Civilian Control Zone=CCZ)となる。CCZ周辺は一面草原ばかり。建物などは一切ない。CCZを越え、非武装地帯(Demilitarized Zone=DMZ)に近づいていく。

従来、DMZを通って北朝鮮側に行くための玄関口は公式的には板門店(京畿道坡州市)だけだったが、2003年に「都羅山―開城工業団地」南北直通道路が建設されている。この南北直通道路を使えば、南北朝鮮を流れる臨津江(イムジン河)を越える“統一大橋”を渡って都羅山に行く。

鉄道で都羅山に行く方法もあるが、この場合は京義線の韓国・坡州駅から3つ目の臨津江駅でシャトルトレインに乗り換え、臨津江の鉄橋を渡れば都羅山駅(※)に着く。

(※ 都羅山はDMZの中にあるため、平和列車<DMZ-train>と呼ばれたが、南北関係の悪化から現在に至るまで運航中止と再開を繰り返し、現在は中止状態となっている)

DMZを通過するためには韓国側の南北出入管理事務所Inter-Korean Transit Officeに立ち寄って、手続きをしなければならない。

「カメラ・スマホなど撮影及び音声テレコの機器類はもちろんのこと、ノートや筆記具も持ち込めません。韓国側に預けるように」と言い渡された。

韓国側の出境ポイントに着き、指示通りに機器類を預ける。

パスポートと開城工業団地管理委員会発行のPassage certificates(有効期限は1週間)を携えて出境手続きすると、「この後は指示通りの道順に従って移動するように  !!」との通達。パスポートには当局の押印やサインはなく、ただ見せるだけ。

出境手続きを終えると、乗ってきた車に再び乗り込む。

DMZを通過している間、軍人の姿はない。葉っぱの取れたポプラ並木などの樹々や貧相な花壇が並び、いくつかのモニュメントも見かけた。

DMZの真ん中には軍事境界線(Military Demarcation Line=MDL)が通っている。これが、いわゆる“38度線”と呼ばれるものだが、この38度線を境に韓国側と北朝鮮側に各々2キロ、合計4キロ幅のDMZが半島を東西に横断し、南北朝鮮を分断している。実際は38度線が平行に横断しているのではなく、半島東側はやや北に、半島西側はやや南に傾斜する形での分断線である。MDLの前後には双方の軍用車両が待機、各々の守衛兵士が通行車両や往来者を監視し、警護・誘導する。

しかし、両軍兵士の間には明らかに体格差がある。北朝鮮兵士は気の毒なほど栄養不足が目立っている。これではまともに守衛兵士としての役割が果たせないのでは、と思えるくらい北朝鮮兵は細身で、顔は精彩がなかった。

屈強な北朝鮮兵士は他の重要地帯に配置され、国境付近の守衛兵士はこの程度でもよい事情があるのか、と勘繰ってしまうほどだった。

MDLを越えて北朝鮮側DMZにある入境ポイントに着く。

ここでも韓国側からの出境と同じく、パスポートとPassage certificatesを提示。やはりパスポートには押印やサインはないままに通過する。北朝鮮職員の監視のもとに入境ゲートをくぐると、不審物携帯の厳重な検査を受ける。

この後も、入境ポイントである4階建てビルを1階~2階~1階と厳格な指示のもとに移動。1階出口まで来た。

ここを一歩踏み出せばいよいよ北朝鮮である。

(続く)

 

⑨ 北朝鮮に入ってみた(その2

DMZ(非武装地帯)内にある北朝鮮入境事務所を出ると、もうそこは北朝鮮。この先、もし何かのトラブルが生じて北朝鮮側に拘束でもされたら面倒になる。下手すると韓国側に戻れなくなるかも、、、。そんな不安もよぎる。

入境事務所で手続きを終えて外に出ると、待機していた車に乗り、開城工業団地(Gaeseong Industrial Complex=GIC ※)に向かう。移動中、窓から周囲の景色をキョロキョロ眺めまわし、落ち着かない時間が続いた。スマホやカメラやノートがないため、記憶だけが頼りだ。何の変哲もない無機質な景色が延々と続く。この間、ずっと肩の力が抜けない。

(※ 開城の英語表記は北朝鮮がGaeseong、韓国ではKaesongとなる場合が多い)

GICはソウル中心部からだと60キロ、DMZの北側限界線からはわずか1キロの位置にある。入境事務所を出て車で20分もすると、目の前に15階建てのGIC支援センター(General Support Center)が見えてきた。ビルの前で担当者らが待ち構えていた。まず会議室に通され、工業団地の歴史と概略の説明を受ける。その後、工業団地内の工場に向かった。担当者を補佐する同行の女性職員はやや地味な服装で、表情も乏しい。

昼休みの時間帯と重なったこともあり、ワーカーとおぼしき若者たちが5~6人ずつ男女別に分かれ、建物の壁に寄りかかって弁当を食べている。ジロっとこちらを見ては、弁当箱に顔を突っ込む。声をかける雰囲気ではない。そそくさと通り過ぎた。そもそも、話しかけようにも、当方は朝鮮語が話せない。案内人に先を急ぐようにせかされる。

一つの工場棟に入ると、複数の生産ユニット施設が集まる複合型工場であることがわかった。案内員の説明によると、製造業種も衣類、履物、化粧品容器、厨房機器、プラスチック製品、電子部品など多分野に及んでいた。

GICは南北経済協力事業で造成された経緯があるため、土地やワーカーは北朝鮮側が提供し、韓国側が技術と加工費(米ドル支払い)を負担する――という形である。

工場内を歩いていると、偶然、「SANRIO」の文字が入ったハローキティカップなどの陶磁器商品群を見かけた。SANRIOが北朝鮮で商品をつくっているという話は聞いていない。韓国の協力企業が勝手にSANRIO製品を持ち込んでコピー商品をつくっていると思われる。ここは深く突っ込んではいけないと感じた。日本に帰ってからSANRIOに確認すればいいだけの話だから無言で通り過ぎた。

工場棟内にはまだ空きスペースがあり、ガランとしたフロアもあった。2階の窓際に立つと、GICの遥か向こう側にゴツゴツとした小高い丘の手前に開発予定の造成地が見える。ブルドーザーや建設機械も慌ただしく動き回っており、新しい工場棟が建設されるのだろう。開発予定地は66平方キロメートル(約2,000万坪)という広大なものだった。建設機械の多くは韓国側から持ち込んだもので、工場棟やインフラなどの建設も韓国側が担当する。

このGIC建設は2000年8月に北朝鮮と韓国の間で合意、開発は主に韓国の現代グループが担った。2003年6月から造成開始、2004年末には入居企業の生産が始まった。GICの土地使用権は土地リースが開始された2004年5月から50年間の2054年4月まで。

2014年時点でGICの入居企業数は124社、累計生産額は26億6,974万ドル、ワーカー数は53,947人という規模になっていた。

案内人に「事務所棟のレストラン(Pyongyang Restaurant)で昼食にしましょう」と促される。薄暗い食堂を予想していたが、来訪者向けのレストランらしく、小綺麗な内装と設備であった。

北朝鮮と言えば“平壌冷麺”がまず頭に浮かぶ。メニュー表にある4品の中から一つを選ぶのだが、英語でCold noodleとあったので、それを注文して食べた。細切りのソバに細切れの卵、肉、野菜などがトッピングされ、ハーブや生姜の入った冷スープに入った冷麵が出てきた。意外になかなか美味である。北朝鮮の代表的なビール“Taedong River Beer(大同江ビール)”も少し飲んだ。

レストランの入り口脇には北朝鮮のお土産がガラスケースに並んでいた。訪問客が買っていくのだろう。お世辞にも買いたいと思うほどの代物ではなかった。例えば、ひと昔前の熱海の旅館にあったようなお土産店の雰囲気に似ている。

小一時間かけて食事をした後、再び工場棟に向かう。

生産ラインの機械の間をすり抜けるように工場内を移動する。そのたびにワーカーの近くを通ることになるが、上司から“来訪者の方を見ないように”との指示が出ているのか、皆、うつむき加減に作業をしている。それでも顔は何とか見えるが、笑みはない。生産工場の割には活気がなく、フロア全体の空気が沈んでいる。少々、気が滅入ってきた。

あのDMZやMDL(Military Demarcation Line=軍事境界線)で見かけた貧相な守衛兵士と同じ印象だ。

(続く)

 

⑩ 北朝鮮に入ってみた(その3

開城工業団地(GIC)には、意外なことに日本企業出資の事業が2件あった。

1件はヒロセ電機と韓国企業との折半出資合弁会社(本社:韓国)による電子コネクタとリードフレームの生産、もう1件は株式会社ハタ(現・株式会社HATA)と韓国企業との合弁会社(本社:韓国、ハタの出資は10%)による化粧品容器生産だった。両社とも韓国からの間接進出である。ただし、訪問時(2015年10月時)においては正確な情報入手や視察ができなかった。日本の駐在員が常駐しているらしいとのことだったが、面会も不可能だった。

北朝鮮と日本の幾重にもこじれた関係を考えれば、「北朝鮮事業に関わって大丈夫かいな」というのが率直な感想だったが、生産品の多くは「Made in Korea」となっている。「Korea」が北朝鮮なのか韓国なのか、どちらにもとれるように刻印されている。実にうまいやり方である。GICで生産された商品を韓国が引き取り、韓国側で少し手を加えれば名実ともに韓国製となり、韓国国内販売だけでなく、日本への輸出も可能となる。

生産ラインの見学は北朝鮮側が指定してきたSeokchon Pottery(陶器、食器、その他)とIn The F(スーツ、日用服)の2か所だけだった。当然のことながら、ワーカーに話しかけることはご法度だった。GICで展開されている事業としては衣料品の生産や縫製事業が多くを占めている印象だ。

GIC敷地内にはコンビニ(韓国企業がオープンした“ファミリーマート”)や銀行(韓国WooriBank ウリバンク)も見かけた。コンビニの商品群はそこそこ揃っており、駐在韓国人が利用するものと思われるが、建物自体は安っぽい造りだった。確認していないが、北朝鮮ワーカーはたぶん利用できない。そもそも買えるほどの現金やカードを持っていないはずだから。

この北朝鮮訪問から4か月後の2016年2月11日、GICは閉鎖、資産も凍結、韓国人は全員追放された。GICからの引き揚げ映像が世界中に発信された。

そもそもの発端は、北朝鮮の核実験や弾道ミサイル発射の強行に対して韓国が制裁措置を発令、GICの稼働中止を実施したことだ。北朝鮮側も対抗してGIC閉鎖に至ったもの。韓国にしてみれば、韓国側からGICに支払う加工費が核開発に転用されているのではないかとの疑念が底流にあったからだと言われている。

GIC閉鎖から4か月後の6月16日には同事業の象徴でもある「南北経済協力協議事務所」を北朝鮮が爆破。爆破指令を出したのは金与正・朝鮮労働党中央委員会組織指導部第1副部長(=当時、金正恩氏の実妹)。このニュース映像もすぐに世界中に流れ、「そこまでするか」と唖然とし、呆れた。

朝鮮半島が南北に分裂して以来、数々の衝突と対立、事件が起こった。今後も予測できない出来事が起こるだろう。こうしたことを考えると、GICへの立ち入りが禁止されるぎりぎりのタイミングで北朝鮮へ入国できたことはラッキーだった。

話は前後するが、「北朝鮮に入ってみた(その1)」で言及した北朝鮮当局から事前に通達された持ち込み禁止品及び行動制限の項目は以下の通りだった。

1.双眼鏡、望遠鏡固定レンズ付きのカメラ

2.携帯用ラジオ

3.社会秩序に影響を及ぼす印刷素材(特に新聞記事と論説)、フィルム、写真、声ファイル、ビデオテープ、音声入りディスク、磁気ディスク、版下、手細工彫刻など

4.携帯電話やGPS機能付き電子機器

5.画質の低い小型デジタルカメラの持ち込みは可能な場合もあるが、撮った画像は北朝鮮検査官からの調査を受け、画像削除措置も。

6.軍事関連施設・人物、GIC及びGIC労働者、出入境事務所職員などの写真撮影は全面禁止

7.北朝鮮側の指定するスケジュールは時間厳守、守れない場合はGICへの出入り禁止

これら以外にも、韓国からの出境直前には韓国側の判断でノートと筆記具の持ち込みも禁止された。

あらかたこんな感じだった。気が小さいもんで、もし何かやらかしたら拘束されかねないと勝手に想像を膨らませ、律儀に守った。

(続く)

 

⑪ S.21とキリング・フィールド 

2015年6月、カンボジアの旧「S.21」を訪れた。

S.21 、、、これを聞けばカンボジア人はあの忌まわしい過去に眉をひそめ、不快感と苦痛で顔の表情を歪める。

S.21とは“Security office 21”と呼ばれたトゥール・スレン刑務所のことである。

1975年4月首都プノンペンを占拠したポル・ポト(Pol Pot)率いるクメール・ルージュ(Khmer Rouge=赤いクメール)は、1979年1月に政権崩壊して敗走するまでの期間、資本家・技術者・教師・知識人・伝統文化継承者・宗教関係者などを“反革命分子”と烙印を押し、S.21へ強制収容した上、尋問と称する拷問、虐殺を繰り返した。

クメール・ルージュとは急進的な毛沢東主義者集団であり、その指導者がポル・ポト。クメール民族至上主義と原始共産制を標榜した。国民の多くは都市から農村へ強制移住させられ、過酷労働によって病気、栄養失調、そして飢餓に追い込まれた。

カンボジア全土が強制収容所と化し、100万人以上いた首都プノンペンは廃墟になった。当時のカンボジアの人口600万人のうち推定100~180万人が餓死、病死、拷問・処刑で亡くなったとされる。

プノンペンの中心部に設置されたS.21は、もともとはTuol Svay Prey高校(3階建て4棟)の学舎だったが、クメール・ルージュがここを接収してカンボジア最大の刑務所(約1万7,000人収容)にした。このS.21には次々と収容者が送り込まれ、順番に拷問・虐殺が行われた。

S.21に収容されて生き残ることができたのはわずか7人(8人という説も)。S.21に収容しきれない場合は、プノンペン南15キロのChhoeung Ekに造られたS.21の付属刑場(通称“キリング・フィールド”)に移送し、処刑した。

私が2015年6月に旧S.21を訪問した時、存命だったのは2人だけだった。

そのうちの一人がBou Meng氏。そのBou Meng氏に旧S.21の敷地の一角で面会した時、「私はクメール・ルージュの忌まわしい蛮行を肉声で伝えることのできる生き証人だ」と訴えてきた。(現在、Bou Meng氏が存命なのかどうかは不明)

Bou Meng氏

旧S.21

 

旧S.21には、血痕が飛び散った尋問室と拷問器具が残されていた。棟内には煉瓦で仕切られた薄暗い1畳余の独房が限りなく連なり、別室には犠牲者の頭蓋骨群が並び、膨大な数の収容者の顔写真が壁一面にぎっしりと貼り付けられている。収容者の中には外国人ジャーナリストも含まれていた。

現在、プノンペン郊外のChoeung Ekキリング・フィールドではS.21の付設博物館(大量虐殺センター)が一般公開されている。

ポル・ポトは1978年12月ベトナム軍の侵攻でプノンペンから敗走。その後、約19年も逃げ隠れ、生き延びた。

ただ、1997年6月、クメール・ルージュの軍司令官タ・モクはポル・ポトを「裏切り者」として逮捕・監禁、ジャングルに連れ去った。そして1998年4月、ポル・ポトはタイ国境近くのカンボジア北部Anlong Vengで死去したと発表された。病死あるいは毒殺とも。真偽は定かではない。

国際軍事法廷にて裁かれることなくポル・ポトはこの世を去った。一方、タ・モクは1999年3月タイ国境近くの村でカンボジア軍に逮捕され、2006年7月に死去している。

ポル・ポト派の残党の中には、その後の追求捜査や密告による逮捕から逃れ、いまも口を閉ざし、息を殺して生きている者もいるらしい。

ちなみに、1984年公開の映画『キリング・フィールド(The Killing Fields)』はカンボジア内戦に従軍したニューヨーク・タイムズ記者がその体験に基づく実話(後にピューリッツァー賞受賞)を映画化したもので、1985年アカデミー賞助演男優賞・編集賞・撮影賞の3部門受賞している。上映後のインパクトは大きかった。

しかし、映画ではポル・ポトという稀代の悪党がなぜ出てきたのか、クメール・ルージュが大虐殺へと暴走した背景は何だったのか、深掘りのないままストーリーが進み、映画は終わる。

ポル・ポト死去から四半世紀。そろそろ正確なポル・ポトの映像作品が登場してもよい頃ではないか。

(続く)