Asia21代表のmemorandum

雑記帳(追加型、随時更新)

 

① アメリカ・ニューヨークに

1981年10月2日金曜日、成田国際空港15時55分発ノースウエスト(NW)航空004便でアメリカ・ニューヨークに向かう。

成田を発ってから約10時間、日本時間の真夜中2時過ぎに予定通り西海岸オレゴン州ポートランド(Portland)空港に到着。同空港で2時間ほど待機。寝ぼけ眼の状態だからウロウロ歩くのも億劫。空港内の通路脇に設置されているソファーで半睡眠状態。ふと空港アナウンスが耳に入り、再びNW機に乗り込む。乗機して数時間した頃、「当初の予定を変更し、シカゴ・オヘア(Chicago O’Hare)に着陸します」との機内アナウンス。乗客がいっせいに騒ぎ出す。「エーッ!!」。機材に不具合か何かが生じたのだろうか。説明はなし。

何とか静かさを取り戻したものの、シカゴ・オヘア空港到着の直前に再び機内アナウンス。「当便はシカゴ止まりとなります。ニューヨークへは他便にお乗り換えください」との案内。再度、機内に響く不満の声。「エーッ」。あちこちからガッカリした声が。

仕方がないので空港到着後、当地をハブ空港とするユナイテッド(UA)航空のカウンターに向かい、NW機からUA機への乗り換えチケットを発行してもらう。

航空会社を変更したことで到着空港も変更となった。当初はニューヨークのジョン・F・ケネディ(JFK)空港だったが、到着地はニューアーク(Newark)空港になった。ニューアークはニューヨーク州の東南に隣接するニュージャージー州に位置する。

3度目のガッカリに、多くの乗客はもう観念した様子。

目的地がニューヨークの場合、到着空港は2つある。JFK空港とラガーディア(LaGuardia)空港。さらにもう一つ、ニューヨークに近いニューアーク空港もよく利用される。

当初の予定より約半日遅れとなったが、それでも何とか無事ニューアーク空港に到着した。

空港でタクシー(イェローキャブ)を拾う。荷物が多いのと私がキョロキョロしていたためか、タクシー運転手からは「コイツ、田舎モンだな」と思われたに違いない。遠回りして運賃をふっかけてくる雲助タクシーには気をつけなければならない。

「どこへ行くんだい?」と、聞き取りにくい強い南部なまりの米語。なんだ、コイツも田舎モンか、、、。

行き先を告げると「フン」と言ったきり。感じが悪い。フロントガラス前に固定されているタクシー登録証をのぞき込みながら、「ヨロシク、ミスター〇△×◇」と挨拶。そして何か聞かれるたびに、「イエス、ミスター〇△×◇」「ノー、ミスター〇△×◇」「シュア、ミスター〇△×◇」を繰り返した。

「ミスター」、「ミスター」とくどいほど繰り返したのは、私はアンタの名前をしっかりと覚えたぞと、自分なりの警告シグナルを出したつもりだった。口にはしないが、「雇用主のタクシー会社に通報されたくなければ遠回りなどせず、ちゃんとしたルートと運賃で目的地まで走ってくれ」というメッセージを込め、タクシー登録証と運転手を何度も確認するポーズを繰り返し、ついでに手元の簡易マップをみるフリをした。

法外なボッタくりに遭わないようにするためにはこうしたやりとりをするほかない。用心にこしたことはない。日本では恥ずかしくてとてもやれそうにもない三文芝居だが。

ニューワーク空港からタクシーで夕闇のInterstate 95号線を北上し、途中で東のマンハッタン方向に右折分岐すると、ハドソン川(Hudson River)に突き当たる。その向こう側には高層ビル群が眼に飛び込んでくる。写真やTVでもすっかりおなじみのあの光景である(この時は威風堂々たる高層ツインタワーの世界貿易センターがまだ健在であった)。

この瞬間、やっと「あぁ~、ニューヨークに来た」という実感が湧く。

ハドソン川の下を潜るリンカーントンネル(Lincoln Tunnel)を通り抜けるともうマンハッタン島の地上だ。そう、マンハッタンというのはハドソン川とイースト川(East River)の2つの川に挟まれた島の上に存在している。

住むのはクィーンズ(Queens)区に確保してある会社契約のApartment。マンハッタンからクィーンズに行くには、マンハッタン東端のクィーンズボロー橋(Queenzboro Bridge)でイースト川を越え、その先にあるロングアイランド(Long Island)島に渡る必要がある。ロングアイランドもまたマンハッタンと同じく島になっている。マンハッタンが南北の縦長状の島ならば、ロングアイランドは東西の横長状の大きな島。実に対照的な形状である。

クィーンズボロー橋から続くクィーンズ通り(Queens Blvd)をそのまま東方向に走るとクィーンズ区に入る。クィーンズ区Forest HillsにあるApartmentに着く。

1階玄関に待機する黒人の守衛さんが笑顔でドアを開けてくれる。高層Apartment(30階建ての25階)の1LDK+B(ベッドルーム)の部屋だが、日本での間取りとは違い優に20帖以上はあるLDK。

ベランダからの景色はすばらしく、見おろせば緑豊かなForest Parkが眺められる。直前まで住んでいた東京・武蔵野市のマンションとはずいぶんな差である。実際、武蔵野市のマンション2階の部屋の窓から見えるのは戸建て住宅群の屋根が延々と広がる光景だったので、このニューヨークのApartmentからの眺めは気分爽快そのもの。

快適な住環境にホッとした。地下には大型コインランドリー機があると守衛に聞いていたので行ってみると100台近くが並んでいる。何とまぁすごいこと。さすがアメリカだと感心した。

日本を発ってからの長距離移動と機材トラブルで疲れもたまっていた。週明けからのニューヨーク生活をあれこれ考える暇などなく、すぐに眠りについた。

<2025年3月5日投稿>

 

② ある日突然、ニューヨーク勤務の辞令

「人手が足りないので、ちょっとニューヨークに行ってくれないか」

会社の役員(専務)からそう言われたのは1981年7月のことだった。

「“ちょっと”というのはどれくらいの期間ですか」と聞いてみる。どうも歯切れが悪い。

「とりあえず長期出張だと思ってくれ。期間は未定だ。事と次第によってはそのまま現地に残ってもらうかもしれない。まぁ、、、そんな感じだ」

そんな感じ? あまりにもゆるい会社決定を告げられたことで、「左遷か!」と直感。ニューヨークでのスタッフ不足もまんざら嘘ではなかろうが、社内における私の態度や発言など会社から好意的にみられていなかった可能性もある。心当たりもあった。学生時代からの友人にこのことを話すと、「ニューヨークに飛ばされる? あのニューヨークか! 栄転じゃないのか !? 普通は喜ぶもんだがな」と訝しがられた。普通の会社だとそうかもしれないが、まぁ、個別の社内事情はそんな単純なものではないことも往々にしてある。私の場合、ニューヨーク勤務を希望していたわけでもなかったので、唐突の辞令でしかなかった。

「現地からキミには“I Visa”を取ってくるようにと聞いているので、ヨロシク」と役員は付け加えた。特定ビザ(=I Visa)での渡米はあくまで現地側の要望であり、自分はOKをだしただけ、と言いたげだった。辞令をだす権限を持つ役員だからすべてを知っているはずだが、当方には詳しく説明しない。

まぁ、どうでもいい。それにしても、Iビザ?。

Iビザとは、いわゆる報道関係者ビザのことで、最大5年。(現在はどうなっているのかしらない)

発行対象は、

(1)ジャーナリストや新聞、ラジオ、テレビ等の派遣記者やメディア関係者

(2)レポーター、映画製作班、エディター、製作・企画会社の社員、契約のあるフリーランスのジャーナリスト、および撮影クルー・外国報道機関の代表

――などである。

Iビザであればアメリカ国内で取材活動を行い、現地会社に給料を払ってもらって生活することは可能だ。しかし、給料はあくまでも日本からアメリカ現法に送金することになる。つまり、仕事の現場はアメリカ国内だが、給料は日本側がだす。

うーん、これは何だろう。やはり途中で現地会社に転籍、雇用ビザに切り替えさせる気なのか、と勘繰る。まぁ、いいや。成り行きに任せよう。

しかし、いま借りている東京のマンションはどうしよう? このまま契約を継続すべきか、あるいは現法への転籍で駐在が長引いた場合を考えて解約するか。途中帰国の場合も住むところがないと困るし。辞令をもらった時に直属上司に相談すると、役員と同じで要領を得ない返事。おそらく事情が把握できていないのか、役員から詳細を耳打ちされてすっとぼけているのか。部下のことには無頓着な人だったことを思いだし、もう行くしかないと肚を決めて渡米することにした。

後日談だが、結果的にはこの派遣形態が長期間続き、アメリカで支払われる給料(週給制の小切手)と同時に渡される明細書には赴任直後から各種Tax(Federal O.A.B.、Withholding Tax、State W.Tax、City W.Taxなど)が徴収されていた。しかし、東京に住民票を置いてきていたため、駐在期間中も各種の納税通知が東京のマンションには届いており、それが未払い状態になることなどあまり深く考えていなかった。会社もそこまで親切にプライベート面でのフォローはしてくれていなくて、帰国後に延滞料込みで一括支払いをさせられる羽目になった。

後顧の憂いを自覚しないままのニューヨーク赴任だった。

<2025年3月5日投稿>

(続く)