先細りの先は途絶か、日本の台湾人脈

 李登輝氏(元台湾総統)が死去してはや1か月になろうとしている。この間、李登輝氏といかに交流があったかを誇示する人たちが続出した。しかしその大半は、握手しただけの政治家の自慢話にはじまり、集団インタビューの一員として参加した記者のエッセイ、大勢で押しかけた各種団体随行者による面談印象記、等などだった。

 1980年代後半から90年代初頭にかけて日中の政治経済関係が深まる傍ら、日台間の人脈交流は激減、日台と日中の比重は逆転する。

 李登輝氏が現役の総統として日本を訪問したことは一度もない。武士道をこよなく愛し、松尾芭蕉の「奥の細道」を自分の足で歩きたかった李登輝氏の訪日希望を頑なに拒んできたのは、中国からの反発を異常なまでに恐れる日本政府だった。

 1995年4月、李登輝氏の前に米コーネル大学のフランク・ローズ学長が現れ、「誇るべきわが校の卒業生に講演を要請したい」と伝えた。李登輝氏は米コーネル大学卒業生だったのである。その橋渡しに奔走したのが、同大学留学経験者の劉泰英氏(元台湾経済研究院院長)と言われている。同年6月、李登輝氏は訪米を実現する。

 李登輝氏は戦前、新渡戸稲造の『武士道』に感銘を受け、1943年、同氏が教壇に立つ京都大学へ進学した。その李登輝氏を母校に招くために日本政府を説得できる人物(劉泰英氏のような人物)が京大にはいなかった。 

 李登輝氏の訪日が実現するのは総統退任後となる。2001年4月に持病の心臓病治療という「人道的理由」で日本政府は岡山県倉敷市の医院を訪れるためのヴィザを渋々発給。しかし、その後は8回訪日、靖国神社に参拝もしている。

日本の歴史・伝統・文化を熟知した教養人ということが話の端々からも感じられる李登輝総統(1995年8月)1995©KazunoriShirouzu

 余談だが、1995年8月に日本の政財界代表と共に台湾取材に行ったことがある。最終日の晩、李登輝氏から日本人への感謝の言葉があった。見事というほかない知性溢れる一言一句の余韻に浸っていると、その直後に答礼の挨拶に立ったのが日本のベテラン政治家の某氏。呆れるほどに凡庸な言葉の貧しい挨拶を聞かされる羽目に。私自身、顔が真っ赤になるほど恥ずかしかった。「貧困なる政治家」の陳腐な答礼を李登輝氏はどう受け取ったか。

1964年2月、池田勇人首相(当時)の親書を携えて蒋介石総統(右)との会談のために台湾を訪れた吉田茂元首相(左)<中正紀念堂に飾ってあるパネルを白水撮影>©KazunoriShirouzu

 蒋介石、蒋経国時代を通じて築き上げた日本の台湾人脈は半世紀前から年ごとに先細り、いまや途絶寸前といったところまで来ているのではないか。

(白水和憲)