読みたい記事がない日本の新聞に未来はあるか

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新年おめでとうございます

 

芝・増上寺(2025年1月1日午前2時撮影)

写真= ©KazunoriShirouzu

 

10年ほど前から新聞を購読していない。理由は至極簡単。読む記事がないからである。

しかし、1年に1度だけ、正月(1月1日)だけは朝日・読売・日経・産経・毎日・東京の6紙を買う。大抵は近所のコンビニで手に入るが、「毎日新聞は置いていません」とよく言われる。仕方なく遠方の販売店にまで足を延ばすが、それも他紙(朝日)の販売店に間借りして売っていることが多い。

右上から時計回りで読売、朝日、日経、毎日、東京、産経の各紙第一面

写真= ©KazunoriShirouzu

 

6紙が揃ったところで朝から読むのだが、やはり今年の内容も期待ハズレ。それでもやっと読めそうな記事を3つ見つけた。

 

「世界線―インターネット」(1頁7段、日経)

「数字が語る 復興途上」(見開き2頁8段、東京)

「孤高の天才 三島由紀夫生誕100年」(1頁6段、日経)

 

一方、海外記事は相変わらず外国メディア(新聞・TV)のネタを翻訳したものばかり。

地上波TVは視るに堪えない斜陽業種、ネットはモラル無き書きっぱなし天国、YouTubeは発信の快楽に憑りつかれた者たちの見苦しい喧騒空間。

何を頼りに日本国内や世界の動きを読み取ったらよいのか。

検証作業を経ない粗雑なSNSに振り回されるより、やはり新聞の復活が望ましい。時代遅れと言われるかもしれないが、やはりプロの記事に信頼性を置きたい。

ただ、新聞はもはやSNSの速報性には勝てず、独自視点の調査報道すら実現できていない。そうした弱点には今後も目をつむるしかないのか。

新聞に望むのは、これまでのように政府・役所・政治家・企業経営者(とくに大企業)の御用聞き(=使い走り)のような提灯記事はやめてもらいたい。国民(納税者)のためになるような記者個人の署名入り調査記事が読みたい。動画配信を伴う新しい活字発信の媒体があればもっと好ましい。

いまや新聞社の経営の悪化と記者の取材力の劣化は止められそうにないが、せめて全国紙2~3紙、もしくは地方紙が半分ほど生き残れば上々ではなかろうか。

 

(記・白水和憲)