B.J.Habibieインドネシア第3代大統領、死去

 9月11日、第3代インドネシア大統領だったBacharuddin Jusuf Habibie(ハビビ)氏が亡くなった。83歳だった。

 バンドン工科大学卒業後、ドイツで航空工学博士号を取得、同国で潜水艦設計に携わった後、独航空機メーカーのメッサーシュミット社副社長、帰国して国営石油会社プルタミナに入り、その後、国営航空会社IPTN社の社長などを務め、科学技術担当国務大臣に。

 「わが国で航空機生産はまだ早すぎる」と他の閣僚からの声にもひるまず、1984年にスペインのカサ社との共同開発でコミューター機CN235を生産、初飛行させている。

 私(白水)がHabibie氏にはじめて会ったのは、1988年秋。来日したHabibie氏が神奈川県のハイテク企業を視察するのに同行取材した。Habibieが宿泊する都心のホテル(新宿)からマイクロバスに乗り込むと、ちょうどHabibie氏の隣席が空いていたので座った。これ幸いと、取材の趣旨を説明し、興味のある点をいくつか口にした。

 それを聞くなり、早口の甲高い声で延々と話をはじめた。片道約1時間の移動中、私が途中で質問できたのは3~4度ほどで、あとはまったく当方に口を挟ませず、一方的にまくしたてた。2週間後にインドネシア出張の予定があることを伝え、再度ジャカルタでの正式インタビューを打診。OKの返事をもらい、改めてHabibie氏のオフィスで面会した。

当時52歳のB.J.Habibie氏。ジャカルタのオフィスでインタビュー( 1988年11月)
1988©KazunoriShirouzu

 当時のインドネシアでは、「ハイテクなんぞに金を注ぎ込むより農業の充実や資源開発を優先すべき」との考え方が主流で、「少なからぬ閣僚が私と意見を異にするのは、彼らが目先のことしか考えていないからだ」「農業がすべてというのはキチガイ沙汰だ」と、バスの中での取材と同じく、口角泡を飛ばす勢いでまくしたてた。

 さらに、「将来の人口増に備えた国土計画が必要。そのためにもジャワ島とスマトラ島を結ぶ40キロ弱のトンネルか橋が必要となる」と強調。その調査のために、88年秋の来日時には青函トンネルを視察している。

 スハルト大統領(=当時)の反対はなかったものの、地道な産業化政策を優先する時代において、航空機と言い、海峡トンネルと言い、巨額を投じての野心的なHabibie氏の科学技術志向に対しては反発が多く、政府の中では孤立した。

 1998年5月、スハルト第2代大統領失脚のあと、Habibie氏は第3代インドネシア大統領(1998年5月~1999年10月)となった。1年5か月という短命政権ではあったが、まさかあのおしゃべりな技術テクノクラートのHabibie氏がのちに大統領になるとは、あの当時、私は予想すらしなかった。

 合掌